2012年4月28日土曜日

九地篇・戦争の終結

_だから、戦争するということは、敵の意思をよく知って共感し、
敵の内部から反抗が起きるように支援して、遠方にいながら、
敵の将軍を殺すことだ。
これができる者を巧みによく事を成す者というのだ。
そこで、政略を実行する日は、関所をいつもの様に開けて、
通行手形を選別し、敵国からの使者だったら通さず、朝廷に上
訴して、政略を実行にうつし誅殺する。
敵の内通者が国境の門を開けたら、必ず、いそいで入って、
内通者が集結している場所にまず行き、ひそかに内通者たち
と会い、約束したことを実行して、敵に成りすまし、作戦を完了
させる。
ようするに、始め処女のようにおしとやかにして、敵の内通者
が見つかり、心を開いたら、後は逃げるウサギのように速やか
に実行すれば、敵対する者は、拒絶する暇さえない。

※徳川家康は、豊臣秀吉の家臣となり、秀吉の家臣たちと交際
して共感しあい、誰が味方になるか、誰が敵になるかを見定め
た。
そして、秀吉が死ぬと、すぐに家臣同士の対立をあおり、強大
な権力と財力を利用して、家臣の苦労や不満を汲み取り、支援
して恩を売ることで実行支配者となった。
後は反抗分子を少しずつリストラするだけでよかったのだが、
オランダから出航した東インド貿易の船、リーフデ号が漂着し、
この船に「大型の青銅製の大砲19門、マスケット銃500挺、
砲弾5000発、鎖弾300発など」が積まれていたのを家康は手
に入れ、合戦をして一気に天下をものにしようとした。
それが関ヶ原の合戦で、思わぬ苦戦になり、こともあろうに、
秀吉の血縁関係にあった小早川秀秋に助けを求めるはめにな
り、秀吉の家臣の影響力が残ってしまった。
結局、大坂の役まで、天下をものにできず、死ぬまで戦わなけ
ればいけなくなった。
家康は「始めは処女のごとく、後には脱兎のごとし」を実践して
成功したが、余計な力業で後味の悪い最期となった。
このことがなければ、幕末に豊臣家の家臣の末裔による倒幕
はなく、江戸時代はまだ続いたかもしれない。


ゆえに兵をなすの事は、敵の意に順詳し、敵を一向に并(あわ)
せて、千里に将を殺すに在り。
これを巧みによく事を成す者と謂(い)うなり。
このゆえに政、挙(あ)ぐるの日、関(かん)を夷(とど)め、符を
折りて、その使を通ずることなく、 廊廟(ろうびょう)の上に厲(は
げ)まし、もってその事を誅(せ)む。
敵人、開闔(かいこう)すれば必ず亟(すみや)かにこれに入り、
その愛するところを先にして微(ひそ)かにこれと期し、践墨(せ
んぼく)して敵に随(したが)い、もって戦事を決す。
このゆえに始めは処女のごとく、敵人、戸を開き、 後には脱兎
(だっと)のごとくにして、敵、拒(ふせ)ぐに及ばず。

故爲兵之事、在於順詳敵之意、并敵一向、千里殺將
此謂巧能成事者也
是故政舉之日、夷關折符、無通其使、厲於廊廟之上、
以誅其事
敵人開闔、必亟入之、先其所愛、微與之期、踐墨隨敵、
以決戰事
是故始如處女、敵人開戸、後如脱兎、敵不及拒